旧堺港界わい

Keishin Honda

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「男の名前では、ご家族が心配されると思い、娘の名前で手紙を送っていました。黙っていてごめんなさい」
 胸がずしりと重くなった。笑いが込み上げてきて、怒りさえ覚えた。言葉は見つからない。
 夕紀さんは、紅茶とケーキをテーブルにおいて、何か私に声を掛け、部屋を出て行った。私は居間のこじんまりとしたソファに座って、彼女が何を言ったのか思い出そうとしていた。それは多分、「ごゆっくり」であるとか、そんな言葉だ。正確に思い出す必要はなかった。
 向かい側に座っている母の友人は、私が落ち着くのを待つように、何か他愛もない話で場をつないでくれているようだ。
 自分は何に動揺しているのだろう。
 瞬間に勘ぐったのだ。これが「家族が心配する」の意味である。上っていた血がすうっと引いていく思いがした。
 田嶋さんが穏やかに微笑んでいる。悲しくも見える。三ヶ月前の私たち家族以上に、彼が辛そうに見えた。この表情だけで、私は母と彼の間のことをもう分かった気でいる。

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