旧堺港界わい

Keishin Honda

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「お連れしましたよ」 看護師はドアを開けて声を掛けると、すぐに受付に戻っていった。中には遠海がひとりで入った。 机の向こうで女性がひとり遠海を見つめていた。「あっあの向井田先生にお会いできますか?」「私が向井田よ」「あ……」 遠海が言葉を失って…

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「あっ、向井田先生、あの、今」 看護師がもたもたしているうちに、事務員の男が、遠海を追いかけて駆け出していった。 向井田は何のことだか解らず、不思議そうな顔で立っていた。「今、あのマツシタトオミさんという……」「松下……徹?」「ええ、休憩に出ら…

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向井田は、まだ病院に戻っていなかった。受付には、先ほどの看護師がいて気の毒そうに遠海を見た。少し早かったようだ。 その時間、待合室には誰もいなかった。看護師だけが何人かうろうろしているだけで、深閑としていた。「向井田先生? 今日は人気やなぁ…

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それでも老女は遠海の後頭部に手を添えたまま、どける気配はない。少女はもう全く動かない。死んでいるようだ。老女は大きく息を吐き出すと、呼吸を整え、黙って遠海の様子を伺っていた。 水面は老女が呼吸するたびに動く腕のせいで若干揺れていたが、それ以…

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遠海は少し鼻をくずらせながら、慌てて彼女の後をついていった。家に向かっている。しかし、家には入らず通りすぎた。家の丁度裏に、洗濯でもするのだろうか、蛇口とその下に大きなたらいが置かれてあった。老女は、その大きなたらいに水を溜め始めた。蛇口…

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「……休憩に出られてて……また後から行きます」 老女は、口を噤んでまた歩き始めた。「あの……二十年近く前のこと、何でもいいんです。教えてください。おばあさんだったら、何かご存知じゃないですか? ずっとここに住んでらっしゃるんだったら……」 遠海はまた…

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「息がな、苦しくなるねん。心臓病かな」 海里は、砂利を踏む音で祖母の足音が判るのか、松葉杖を支えに立ちあがった。「ばあちゃんが来た。店番せなアカンから、また後でな。働き過ぎで死ぬわ。足悪いのに、ホンマ、きついオバァやで。ああ、今日も帰れへん…

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しかし、まもなく嵐が海を襲い、青年は二度と妖精と会うことはなかった。その若い画家は、彼女は海に帰ったのだと思った。 そして月日が流れて、いつか誰かがこの海を見つけ、人が訪れるようになると、青碧の美は過去のものとなり、記憶の底に沈んでしまった…

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青碧の海は青かった。光が反射してきらきら輝いている。遠海の耳には海里の優しい声だけが響いている。 その昔、誰もこの場所を知らなかった頃、この海の水は自然の色をしていた。青く深く誰も予測できない美しさだった。おとぎ話に出てくるような穏やかで静…

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---台風で大荒れ。波に飲まれた学生、三人のうち二人無事保護、一人重症…… 根岸はしばらくその記事を見つめていた。 駅へ向かう人々が、立ち尽くす彼を横目に過ぎていったが、全く気に留める素振りはなかった。そんな男を現実に戻したのは、「お前それで…

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「根岸さん、オレです」 彼は、何故か声を潜めていた。「部長がカンカンです。あの悪く思わないで……」 そう言った瞬間、別の声がした。「根岸、お前、何処におんねん。勝手なことばかりしてたら、いい加減、クビやぞ。何十年も前の古臭い事件に拘ってもな、…

31

達也はすぐに自転車に跨り、根岸とは逆の方向に走り出した。無性に腹を立てていた。根岸の態度もそうだったが、遠海が自分に何も言わず消えてしまったことに納得がいかなったのだ。自転車を漕ぎながら、「何処へ行ったのかな?」という根岸の言葉頭の中で繰…

30

校門のそばにカメラの男が立っていたが、達也は視界に入れることなく門を一気に潜り抜けた。室内プールと更衣室には鍵が掛けられていて、中に人がいる気配はなかった。 校庭では野球部と陸上部が練習しているだけだった。 自転車を押して門を出ようとすると…

29

インターホンの向こうに女の声がする。遠海の継母だ。特に遠海が彼女の悪口を言っているわけではなかったし、彼女が遠海に辛く当たっている風でもないだろう。が、何故か、達也は彼女に構えてしまう傾向があった。威圧感があるというのでもない。むしろ、親…

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「あの……向井田先生にお会いしたいんですが……」 受付にいた看護師が、遠海の声に顔を上げた。「向井田先生? 内科の方に行ってもらえる? すぐ隣やけど……」 彼女がそう言ったあと、すぐに何処かから声がした。「向井田センセ、さっき出かけたで」 遠海が声の…

27

「ありがとうございました……」 遠海はすぐに言われた方向に歩き出した。「遠海ちゃん、何処行くん?」 松葉杖で追いかけてきた海里が遠海の様子を心配顔で見つめている。「海里くん、行かないといけないとこがあるの。後で、後でね」 遠海は足を止めることな…

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「まったく、愛想のないおばぁやで、ちょっと待っててな」 海里が呆れて呟き、また奥へ入っていくと、遠海は彼女を追うように駆け出した。「あの、すみません」 遠海は老女を引きとめた。「ひとつ、お伺いしてもいいですか? あの……」 老女は遠海に背を向け…

25

「何しにきたん? こんなとこに」 老女は無愛想に口を開いた。「ちょっと……知りたいことがあって……」 威圧のある老人に、遠海はたじろいだ。「親御さんは、知ってんのか?」 その低い声に、遠海は口篭もった。「おっ、ばあちゃん、帰ってたんか、この人は、…

24

「ばあちゃん、出かけてるわ。その辺座って待ってて、着替えてくるから」 松葉杖を器用に動かして、少年は奥の部屋へと入っていった。遠海は入り口に腰を掛けて辺りに視線を動かしていた。 海辺を少し上がったところには、何軒か家が並んでいたが、間の何軒…

23

「ボクのこと、生意気やって思ってるやろ? これでも十七年生き延びてんねんけどな」海里は自分の成長を明るく悲観して言った。「えっ、じゃあ、私と同じ……。ごめんなさい」「謝ったな?」 遠海は謝ることで、考えが図星だったことを認めてしまった。それを…

22

「暑は夏いからすぐ乾くねん。ああ、あのビニール袋におにぎり入ってるで。ばあちゃんが作った。腹減ってんねんやろ?」 少年が指差す方向にスーパーのビニールが置かれていた。「缶のお茶も入ってるやろ、売りもん盗んできたった」 遠海は言われるまま、ビ…

21

「ありがとう。毛布……濡れてしまうな、ばあちゃんに叱られるやろな」 少年は身長は小さく痩せていたが、口調は大人っぽく、不相応に落ちついていた。「ボクは海里、三島海里」「松下遠海」 遠海は、名乗りながらもう片方の杖を彼の脇の下に構えてやった。「…

20

松葉杖の生活は小学校に上がるまで続いた。いつかスイミングスクールのプールに浮かんでいる方が楽だと気づいた。 遠海の予想通り、海に入っていった彼はずんずん泳ぎ続けた。 そして、遠海は確信していた。彼もまた自分のように松葉杖を手放し、ひとりで歩…

19

波が穏やかに輝いていた。 遠海は海辺で眠ってしまっていたのだ。毛布を遠海に被せた人間がいたことも気づかずに。 午前三時前まではまだ海を見つめていた。あくびをしたき、あるいは目を擦ったとき、すでに横たわってしまっていたのかもしれないと思った。 …

18

「行ったらええと思うで。お前の人生や。ラッキーやんか。進路、決めよう思て、大学行っても卒業までに見つかれへんヤツも多いみたいや。お前は、こんな年で自分でやりたいこと解ってる。アカンかっても、自分でどうにかしたらええ。せやろ?」 伸哉は、二つ…

17

公園のベンチで十時、確かに昨日そう約束した。達也はレンガ色のゲートの陰に隠れて通りを見た。すぐに遠海の家が見える。そわそわして家から出てくるのを見張っていたと思われたくはない。いつも約束の時間より十分前に到着する達也だったが、遠海がいつも…

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遠海の家のすぐ前も海がある。昔、貿易の栄えた港だ。夕方になると、風に乗って汐の香りが感じられる。青碧にも同じ空気があった。 海が近い。 遠海は足を早めた。人気もなく普通なら十七の少女がひとりで歩く場所ではなかったが恐くはなかった。そしてその…

15

それに海洋学の研究者である父親も、遠海を海へ連れていくことはなかった。大学生の頃、この青碧の海付近で研究をしていたというのを知ったのも父本人の口からではない。学生時代のことをも封印してしまっている。だから遠海は、ここを訪れることで何かが見…

14

自分が本当は誰なのか。自分が他とは違うということを、遠海はとうに気付いていた。 彼女が知りたがればがるほど、父親は隠そうとした。この十七年半、考えなかったことはなかった。母親が誰なのかも。父親を憎んだことは一度もない。ただ隠し続ける彼が不審…

13

「探しに行きます。本当の自分を」 遠海は、「松下徹」と書かれた表札に向かってそう呟き、歩いて駅へと向かった。 駅は、歩いて十分と掛からない位置にある。迷うことなく南行きの電車に乗り込んだ。まだ、通勤帰りの人でいっぱいだ。彼らを見ていると、自…

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