旧堺港界わい

Keishin Honda

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自転車を止め、声の方に振り返った。スーツ姿の男と女が立っていた。男は中学時代の同級生だった。話しかけられると、いつも適当に挨拶だけして、その場を立ち去っていたが、自然と足はその場に残っていた。「久しぶり。元気?」 同級生は明るい笑顔を向けた…

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変わっていく自分に不安は何一つなかった。得意なことで現金が自然に入ってくるのだ。当然調子に乗った。 アメリカ屋の注意事項を肝に銘じ、営業出ることにした。効果の証明は自分自身。多少の忍耐力も身につけた。要領も得た。知らないことへの不安よりも知…

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「おばちゃんも、髪の毛、薄くなってきてな……」 嫁は母親と顔を見合わせ笑った。 はっとする思いだった。女性用の育毛剤が存在していたことを思い出した。知っていながら、女性が髪の毛の心配をすることを想定していなかったのだ。女性は禿げないという根拠…

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頭が白くなったという者もいる。頭皮の汚れが落ちていないせいもあるだろう。アメリカ屋からは、油分を落とす、その育毛剤用のシャンプーを紹介された。それを勧めてみたら、今度はそのシャンプーには育毛効果はあるのかと聞かれた。単に洗浄効果しかなかっ…

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ミノキシジルという成分が脱毛防止の役割を果たしている。臨床結果では、継続が必要とされていた。止めると元に戻る。 頭皮のかぶれにクレームをつける者は、説明書を読んでいない。痒みやアレルギー反応は、最も一般的な副作用であるされている。多量のミノ…

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説明を省くため、八百屋の主に渡した説明書の内容に、宣伝文句と注文書を加え、多めに印刷し、それも店頭に置いた。 価格は倍額を提示したが、注文は絶えなかった。同じ悩みを抱える者として、当然理解できた。 アメリカ屋は送料込みの価格を表記していたか…

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育毛剤には2%と5%以外にも女性用があった。5%は三本セットを基本に、三本が二箱入っている六本セット、六ヶ月分や三本が三箱入っている九本セット、九か月分など、最多、三本が八箱入っている二十四本セット、二年分まであった。多くなってくるほど、…

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産毛と共に運が廻ってきた、そう思った。注文を代行するだけで、手数料を得ることができる。後はすべてアメリカ屋任せで事が運ぶ。 再び、アメリカ屋のホームページを隈なく見た。今度はアメリカ屋を利用するに当たってのガイドページを細かく読んだ。 アメ…

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「日本語の説明書、コピーしとくわな」 使用に当たって説明が必要であると思った。言いにくいことは、書面で理解して貰うべきた。 商品に付属されている説明書は、すべて英語であるのは、アメリカの商品なのだから、当然のことだった。アメリカ屋は、そんな…

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「一本で一ヶ月使うねん。三本で三ヶ月分。一日二回、朝晩。スポイトで掬った分が一回の分量やねんけど、スプレーやったら、五、六回のプッシュかな。髪の毛じゃなくて、頭皮によく擦り付ける」 主は真剣な面持ちで頷き、「頭皮にな……。まぁ、おっちゃんは頭…

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その翌日から、このちょっとした視覚的変化が、八百屋の主の口コミで商店街に広がった。そして、八百屋の主の如く、この育毛剤を欲しがった。顔見知った隣組たちを想像しただけでも、頭皮が寂しい男たちの顔がすぐに浮かんだ。それが、やがて話したこともな…

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早速、アメリカ屋のホームページを開けた。アメリカ屋は、アメリカで市販されている商品を扱う通販会社だ。現地から直接自宅に届けられることから、中間マージンが発生しないため、価格が安価であるとセールスされていた。たくさんの商品を扱っていたが、専…

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その育毛剤は、当時、2%と5%の二種類販売されていた。成分であるミノキシジルの量のパーセンテージだ。出回っているのは5%。量が多いほうが効果があると考えるのが道理だ。しかし、当然、副作用もつきまとう。多少頭皮が痒くても赤く被れても我慢した…

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何をやってもついていない。無性に何かを蹴り付けたい衝動に駆られた。ミレニアムに浮かれる気が知れない。「光男、お父さんが横の毛、切ってくれるって。今お客さんおれへんから、来なさい」 母親が店と住まいの間から顔を出した。ふさふさの父親は、髪の毛…

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偏見について考えると限がない。頭髪が薄いのは遺伝だろう。カツラを被っても被らなくても、就職の面接中に視線が集中するのは、一回や二回ではない。話していても言葉が途切れ、観察するように見つめているのだ。奇妙な間が流れて、結局、後日電話で不採用…

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「その程度のことで殺されてたら、この世に生存者がおれへんようになる」 見てくれの割にしっかりした物言いだった。しかし、どちらかと言えばただの野次だ。ギャンブルの帰りに飲み屋で一杯、世間話といった感じだ。 こんな事件に至っては、被害者側に立っ…

3

「刺したらアカン、刺したら。なぁ」 男の口調から、その小さな殺人事件のことではなく、やはり殺人未遂事件の話をしているというのがすぐに理解できた。昨日の三面欄でも、その殺人未遂事件が見開き一面だった。 「方言が汚い」と罵られたことに腹を立て、…

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他人を妬んで、自分を呪う過去の習慣が後を引いている。この余裕に満ち溢れている男の様を羨ましく思う反面、この男が真っ当な人間であって欲しくないと願う。自分を慰めるために、他人を憐れみたい。そして、今の自分がこの男より幾分かましであると思いた…

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公園のベンチで偶然隣り合わせた男も、新聞を読んでいた。食い入るように、見開きに顔を埋めている。 それほど夢中になる記事があるのだろうか。番組表の配置を見ると同じ社の新聞であった。三面記事欄の中央辺りならば、ここ数日、世間を騒然とさせている殺…

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「遠海! 何処行くんや」 達也の声が聞こえたのだ。病院を抜け出してきたのだろう。後ろから海里の祖母も心配そうに追いかけてきている。 根岸は狂ったようにカメラを遠海に向け、シャッター切り続けた。「遠海!」 遠海は振りかえると大きな声で言った。「…

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「根岸……」「久しぶりだな。やっぱり、お前が彼女の父親だったんだな」 カメラを提げた根岸吾朗が立っていた。「懐かしいな。この海でまた会えるなんて」 根岸は遠い目で、青碧の海を見つめた。「あの日、オレが意識を失っている間に、何があった? そこにい…

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夕暮れの海は、穏やかに揺れていた。夕日の赤が水面を這っている。嵐はまるで嘘のようだった。 遠海は浜辺に座り、遥か向こうの水平線を見つめていた。「お父さん、お母さんは、……海に帰ったのよね?」 遠海が静かに唇を動かしたとき、父親は娘の若い頬を見…

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十八年近く育ててきた愛しい孫を目にした老女はすでに暗示していたように、皺が深い顔に努めて笑みを浮かべた。 老女が小さな彼の頬に手をやると、彼の口元が笑った。「おばあちゃん、ありがと……」 海里は瞳を閉じ、必死に呼吸をしていた。そして徐々に徐々…

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海里は呼吸を取り戻した。向井田が彼の名を呼び、何度も何度も「大丈夫」だと繰り返している。 遠海は理解し始めていた。「あなたもそばにきて、彼を励まして。彼はあなたの分身よ」 向井田の言葉に、大きく見開いた遠海の瞳から、溜まりきった涙が零れ落ち…

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「お父さ……ん」 海里の載せられた担架が遠海の前を通り過ぎていくと、もう一台続いていた。しかし、それは海里とは同じ方向には行かなかった。「事故だ。海里が達也くんを助けた」 父の言葉に、その二台目の担架で運ばれているのが達也であることを知った。…

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「もう、そんなに経つのね。入って」 向井田が穏やかに目の前の成長した少女を見た。 おずおずと進み入る遠海は、やや向井田を睨みつけるような視線を向けている。「座って」 ソファに遠海が座ったのを見届け、向井田も自分の机を廻って向かい側に座った。緊…

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レスキューの男たちが数人現れたが、もはや救助できる状況ではない。 そのとき、ひとりが双眼鏡を覗きながら叫んだ。「こっちに向かって泳いでる」 松下徹は、ただ一人呆然とその波の前に立ち尽くしていた。十八年前の記憶が嵐のように襲いかかった。あの日…

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遠海の父親、松下徹だった。「約束が違うやんか」 老女は有りっ丈の声で男を怒鳴りつけた。「海里がどうかしたんですか?」「あの子はまだ十八になってないで、せやのに何で」 男は、老女の向けた視線の先を見た。もう小さな点になっている。 そのとき、海水…

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「探し物か?」「あっいや、あの沖に向かって誰かが泳いでるような気がして……」「女の子やで。泳ぎの上手い子や。堺からきたらしいねん」 海里は冗談半分に達也に言った。 すると、達也はTシャツと靴を脱ぎ、いきなり海に駆け込み泳ぎ始めた。「ちょっと、…

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青碧駅に着いたその列車から降りた客は二人いた。一人は達也だった。八月下旬になると海水浴も引き潮だった。達也にしてみれば遠海が望んだ場所はここしかないと思ってのことだ。 静かな道を一心に海へ向かって小走りに歩いた。達也はずっと遠海だけを見てき…

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