旧堺港界わい

Keishin Honda

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海の声

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「暑は夏いからすぐ乾くねん。ああ、あのビニール袋におにぎり入ってるで。ばあちゃんが作った。腹減ってんねんやろ?」 少年が指差す方向にスーパーのビニールが置かれていた。「缶のお茶も入ってるやろ、売りもん盗んできたった」 遠海は言われるまま、ビ…

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「ありがとう。毛布……濡れてしまうな、ばあちゃんに叱られるやろな」 少年は身長は小さく痩せていたが、口調は大人っぽく、不相応に落ちついていた。「ボクは海里、三島海里」「松下遠海」 遠海は、名乗りながらもう片方の杖を彼の脇の下に構えてやった。「…

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松葉杖の生活は小学校に上がるまで続いた。いつかスイミングスクールのプールに浮かんでいる方が楽だと気づいた。 遠海の予想通り、海に入っていった彼はずんずん泳ぎ続けた。 そして、遠海は確信していた。彼もまた自分のように松葉杖を手放し、ひとりで歩…

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波が穏やかに輝いていた。 遠海は海辺で眠ってしまっていたのだ。毛布を遠海に被せた人間がいたことも気づかずに。 午前三時前まではまだ海を見つめていた。あくびをしたき、あるいは目を擦ったとき、すでに横たわってしまっていたのかもしれないと思った。 …

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「行ったらええと思うで。お前の人生や。ラッキーやんか。進路、決めよう思て、大学行っても卒業までに見つかれへんヤツも多いみたいや。お前は、こんな年で自分でやりたいこと解ってる。アカンかっても、自分でどうにかしたらええ。せやろ?」 伸哉は、二つ…

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公園のベンチで十時、確かに昨日そう約束した。達也はレンガ色のゲートの陰に隠れて通りを見た。すぐに遠海の家が見える。そわそわして家から出てくるのを見張っていたと思われたくはない。いつも約束の時間より十分前に到着する達也だったが、遠海がいつも…

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遠海の家のすぐ前も海がある。昔、貿易の栄えた港だ。夕方になると、風に乗って汐の香りが感じられる。青碧にも同じ空気があった。 海が近い。 遠海は足を早めた。人気もなく普通なら十七の少女がひとりで歩く場所ではなかったが恐くはなかった。そしてその…

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それに海洋学の研究者である父親も、遠海を海へ連れていくことはなかった。大学生の頃、この青碧の海付近で研究をしていたというのを知ったのも父本人の口からではない。学生時代のことをも封印してしまっている。だから遠海は、ここを訪れることで何かが見…

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自分が本当は誰なのか。自分が他とは違うということを、遠海はとうに気付いていた。 彼女が知りたがればがるほど、父親は隠そうとした。この十七年半、考えなかったことはなかった。母親が誰なのかも。父親を憎んだことは一度もない。ただ隠し続ける彼が不審…

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「探しに行きます。本当の自分を」 遠海は、「松下徹」と書かれた表札に向かってそう呟き、歩いて駅へと向かった。 駅は、歩いて十分と掛からない位置にある。迷うことなく南行きの電車に乗り込んだ。まだ、通勤帰りの人でいっぱいだ。彼らを見ていると、自…

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遠海は決して父親に逆らうことは言わない。必ず「はい」と言って、二階の自分の部屋に入る。しかし、以前はこうではなかった。何でも相談し、笑い声も絶えなかった。それがたった二人の家族でも。人数が増えると笑い声も倍増するとは必ずしも決まっていない…

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切なげに唇をキュッと噤んで遠海が玄関を入ると、すぐに父親の声がした。「遠海」 食事中だった。部屋に押し掛けられて説教される前に、遠海は台所に顔を出すことにした。「ただいま」 テーブルで、家族三人が仲良く夕食を取っている。これもまた理想の家族…

10

「あのバカが、高校退学寸前やねん」「ノブちゃん、どうしたの?」「仲間と東京に行くって言うてる。オカンは、卒業してからにせぇって言うてるけど、アイツは決めたら、聞けへんヤツから」 弟の伸哉は、学校の教師に嫌われているが、本当は優しい少年だ。自…

9

遠海は小学三年生の時、大学教授の父親とこの堺という町に越してきた。以来、達也とは細い道を隔てて三軒向こうの隣人となった。「いつ見ても、お前の家、ええよな。今風で。オレも洋間の自分の部屋欲しいわ」 達也は、いつも二階の窓を見上げて言う。達也も…

8

「あたし、青碧の海に行きたいんだ」「青碧? あんなの日帰りビーチじゃん。オレが取ってきたチラシの……」「淡路島もいいんだけど、でも……。近くに泊まるところ、あるよね。青碧でも」 立ち上がって返事した遠海は、達也の肩ほどしかない小柄な少女だ。「ま…

7

家の前の公園で、ベンチに座って考え込んでいる遠海に達也が言った。「オリンピック、行きたいな。次ってオーストラリア? なぁ、アメリカとかでトレーニングしたり。オレ、アメリカ人なろかな。け、結婚とかして……」 チラリと遠海を意識して視線を向ける達…

6

「松下遠海さんだね。君をずっと捜してた。私は、東京グラフのカメラマンで……」 男は、ジャンパーのポケットを探って、名刺を取り出し、遠海に差し出した。「根岸、根岸吾朗っていうんだ。取材させて欲しいんだ」 達也は、俯いている遠海の腕を引っ張って歩…

5

遠海と達也はジャージに着替えて、学校の校門を出た。達也の押している自転車の籠に無造作に積み上げている二つの大きなスポーツバッグが、体育会系の学生らしい。「ああ、高校最後の夏休みも、もうすぐ終わりやな」 達也が空を見上げて言った。もう日がすっ…

4

それでも男は同じ体勢のまま、瞬きもせずにただ一心にレンズの向こうを見つめていた。 やがて水面の揺れがほぼなくなった瞬間、少女の身体が水面にぼわっと浮き上がった。動かない。「しまった!」 男は顔を顰め、ようやくカメラを下ろした。当てが外れて、…

3

その美しい泳ぎからは想像も付かないような動きをして、水面をバシャバシャと手のひらで叩き始めた。 彼女に身に何かが起こった。足が攣ったのか、それとも肉離れか。 ロッカーの陰に隠れた男は、反射的に足を踏み出したが、すぐに思いとどまった。何故なら…

2

「お前の泳ぎを真似ることは、オレにはでけへん。参った」 達也はプールサイドに上がると、飲み物を買ってくると言って、タオルを腰に巻いて扉を開けて出ていった。遠海はクスッと笑って、また水中を泳ぎ始めた。 五〇メートル、八コースのその室内プールに…

1

誰よりも速く泳ぐためには、水をできるだけ揺らさずに泳ぐことだ。魚のように優雅に、水と一体になること。しぶきも音も立ててはいけない。ただ水に身体を任せるだけ。 タイムを上げるコツを聞かれると達也はいつもそう応えた。しかし、本人は全くできていな…

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