旧堺港界わい

Keishin Honda

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海の声

53

「遠海! 何処行くんや」 達也の声が聞こえたのだ。病院を抜け出してきたのだろう。後ろから海里の祖母も心配そうに追いかけてきている。 根岸は狂ったようにカメラを遠海に向け、シャッター切り続けた。「遠海!」 遠海は振りかえると大きな声で言った。「…

52

「根岸……」「久しぶりだな。やっぱり、お前が彼女の父親だったんだな」 カメラを提げた根岸吾朗が立っていた。「懐かしいな。この海でまた会えるなんて」 根岸は遠い目で、青碧の海を見つめた。「あの日、オレが意識を失っている間に、何があった? そこにい…

51

夕暮れの海は、穏やかに揺れていた。夕日の赤が水面を這っている。嵐はまるで嘘のようだった。 遠海は浜辺に座り、遥か向こうの水平線を見つめていた。「お父さん、お母さんは、……海に帰ったのよね?」 遠海が静かに唇を動かしたとき、父親は娘の若い頬を見…

50

十八年近く育ててきた愛しい孫を目にした老女はすでに暗示していたように、皺が深い顔に努めて笑みを浮かべた。 老女が小さな彼の頬に手をやると、彼の口元が笑った。「おばあちゃん、ありがと……」 海里は瞳を閉じ、必死に呼吸をしていた。そして徐々に徐々…

49

海里は呼吸を取り戻した。向井田が彼の名を呼び、何度も何度も「大丈夫」だと繰り返している。 遠海は理解し始めていた。「あなたもそばにきて、彼を励まして。彼はあなたの分身よ」 向井田の言葉に、大きく見開いた遠海の瞳から、溜まりきった涙が零れ落ち…

48

「お父さ……ん」 海里の載せられた担架が遠海の前を通り過ぎていくと、もう一台続いていた。しかし、それは海里とは同じ方向には行かなかった。「事故だ。海里が達也くんを助けた」 父の言葉に、その二台目の担架で運ばれているのが達也であることを知った。…

47

「もう、そんなに経つのね。入って」 向井田が穏やかに目の前の成長した少女を見た。 おずおずと進み入る遠海は、やや向井田を睨みつけるような視線を向けている。「座って」 ソファに遠海が座ったのを見届け、向井田も自分の机を廻って向かい側に座った。緊…

46

レスキューの男たちが数人現れたが、もはや救助できる状況ではない。 そのとき、ひとりが双眼鏡を覗きながら叫んだ。「こっちに向かって泳いでる」 松下徹は、ただ一人呆然とその波の前に立ち尽くしていた。十八年前の記憶が嵐のように襲いかかった。あの日…

45

遠海の父親、松下徹だった。「約束が違うやんか」 老女は有りっ丈の声で男を怒鳴りつけた。「海里がどうかしたんですか?」「あの子はまだ十八になってないで、せやのに何で」 男は、老女の向けた視線の先を見た。もう小さな点になっている。 そのとき、海水…

44

「探し物か?」「あっいや、あの沖に向かって誰かが泳いでるような気がして……」「女の子やで。泳ぎの上手い子や。堺からきたらしいねん」 海里は冗談半分に達也に言った。 すると、達也はTシャツと靴を脱ぎ、いきなり海に駆け込み泳ぎ始めた。「ちょっと、…

43

青碧駅に着いたその列車から降りた客は二人いた。一人は達也だった。八月下旬になると海水浴も引き潮だった。達也にしてみれば遠海が望んだ場所はここしかないと思ってのことだ。 静かな道を一心に海へ向かって小走りに歩いた。達也はずっと遠海だけを見てき…

42

「お連れしましたよ」 看護師はドアを開けて声を掛けると、すぐに受付に戻っていった。中には遠海がひとりで入った。 机の向こうで女性がひとり遠海を見つめていた。「あっあの向井田先生にお会いできますか?」「私が向井田よ」「あ……」 遠海が言葉を失って…

41

「あっ、向井田先生、あの、今」 看護師がもたもたしているうちに、事務員の男が、遠海を追いかけて駆け出していった。 向井田は何のことだか解らず、不思議そうな顔で立っていた。「今、あのマツシタトオミさんという……」「松下……徹?」「ええ、休憩に出ら…

40

向井田は、まだ病院に戻っていなかった。受付には、先ほどの看護師がいて気の毒そうに遠海を見た。少し早かったようだ。 その時間、待合室には誰もいなかった。看護師だけが何人かうろうろしているだけで、深閑としていた。「向井田先生? 今日は人気やなぁ…

39

それでも老女は遠海の後頭部に手を添えたまま、どける気配はない。少女はもう全く動かない。死んでいるようだ。老女は大きく息を吐き出すと、呼吸を整え、黙って遠海の様子を伺っていた。 水面は老女が呼吸するたびに動く腕のせいで若干揺れていたが、それ以…

38

遠海は少し鼻をくずらせながら、慌てて彼女の後をついていった。家に向かっている。しかし、家には入らず通りすぎた。家の丁度裏に、洗濯でもするのだろうか、蛇口とその下に大きなたらいが置かれてあった。老女は、その大きなたらいに水を溜め始めた。蛇口…

37

「……休憩に出られてて……また後から行きます」 老女は、口を噤んでまた歩き始めた。「あの……二十年近く前のこと、何でもいいんです。教えてください。おばあさんだったら、何かご存知じゃないですか? ずっとここに住んでらっしゃるんだったら……」 遠海はまた…

36

「息がな、苦しくなるねん。心臓病かな」 海里は、砂利を踏む音で祖母の足音が判るのか、松葉杖を支えに立ちあがった。「ばあちゃんが来た。店番せなアカンから、また後でな。働き過ぎで死ぬわ。足悪いのに、ホンマ、きついオバァやで。ああ、今日も帰れへん…

35

しかし、まもなく嵐が海を襲い、青年は二度と妖精と会うことはなかった。その若い画家は、彼女は海に帰ったのだと思った。 そして月日が流れて、いつか誰かがこの海を見つけ、人が訪れるようになると、青碧の美は過去のものとなり、記憶の底に沈んでしまった…

33

---台風で大荒れ。波に飲まれた学生、三人のうち二人無事保護、一人重症…… 根岸はしばらくその記事を見つめていた。 駅へ向かう人々が、立ち尽くす彼を横目に過ぎていったが、全く気に留める素振りはなかった。そんな男を現実に戻したのは、「お前それで…

32

「根岸さん、オレです」 彼は、何故か声を潜めていた。「部長がカンカンです。あの悪く思わないで……」 そう言った瞬間、別の声がした。「根岸、お前、何処におんねん。勝手なことばかりしてたら、いい加減、クビやぞ。何十年も前の古臭い事件に拘ってもな、…

31

達也はすぐに自転車に跨り、根岸とは逆の方向に走り出した。無性に腹を立てていた。根岸の態度もそうだったが、遠海が自分に何も言わず消えてしまったことに納得がいかなったのだ。自転車を漕ぎながら、「何処へ行ったのかな?」という根岸の言葉頭の中で繰…

30

校門のそばにカメラの男が立っていたが、達也は視界に入れることなく門を一気に潜り抜けた。室内プールと更衣室には鍵が掛けられていて、中に人がいる気配はなかった。 校庭では野球部と陸上部が練習しているだけだった。 自転車を押して門を出ようとすると…

29

インターホンの向こうに女の声がする。遠海の継母だ。特に遠海が彼女の悪口を言っているわけではなかったし、彼女が遠海に辛く当たっている風でもないだろう。が、何故か、達也は彼女に構えてしまう傾向があった。威圧感があるというのでもない。むしろ、親…

28

「あの……向井田先生にお会いしたいんですが……」 受付にいた看護師が、遠海の声に顔を上げた。「向井田先生? 内科の方に行ってもらえる? すぐ隣やけど……」 彼女がそう言ったあと、すぐに何処かから声がした。「向井田センセ、さっき出かけたで」 遠海が声の…

27

「ありがとうございました……」 遠海はすぐに言われた方向に歩き出した。「遠海ちゃん、何処行くん?」 松葉杖で追いかけてきた海里が遠海の様子を心配顔で見つめている。「海里くん、行かないといけないとこがあるの。後で、後でね」 遠海は足を止めることな…

26

「まったく、愛想のないおばぁやで、ちょっと待っててな」 海里が呆れて呟き、また奥へ入っていくと、遠海は彼女を追うように駆け出した。「あの、すみません」 遠海は老女を引きとめた。「ひとつ、お伺いしてもいいですか? あの……」 老女は遠海に背を向け…

25

「何しにきたん? こんなとこに」 老女は無愛想に口を開いた。「ちょっと……知りたいことがあって……」 威圧のある老人に、遠海はたじろいだ。「親御さんは、知ってんのか?」 その低い声に、遠海は口篭もった。「おっ、ばあちゃん、帰ってたんか、この人は、…

24

「ばあちゃん、出かけてるわ。その辺座って待ってて、着替えてくるから」 松葉杖を器用に動かして、少年は奥の部屋へと入っていった。遠海は入り口に腰を掛けて辺りに視線を動かしていた。 海辺を少し上がったところには、何軒か家が並んでいたが、間の何軒…

23

「ボクのこと、生意気やって思ってるやろ? これでも十七年生き延びてんねんけどな」海里は自分の成長を明るく悲観して言った。「えっ、じゃあ、私と同じ……。ごめんなさい」「謝ったな?」 遠海は謝ることで、考えが図星だったことを認めてしまった。それを…

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